カーテンの隙間から漏れる光で目を覚ます。
時刻は6時過ぎだというのに、ガラスを貫通してくる蝉の声にうんざりしてしまう。
四列夜行に放り投げられて、7月末の京都駅八条口に降り立った。
重い体とは裏腹に装備は非常に身軽で、トートバックひとつぶら下げてノコノコとやってきた。
うだるような暑さの京都にわざわざ来た理由は大したものではない。
「オタクの家でちょい懐かしアニメの上映会をする」というものだった。
朝6時に押し掛けるのも申し訳ないので、駅周辺で時間を潰すことにする。
朝マナルでコーヒーしばいたらすぐに暇になってしまった。
あ、関西だとマナルのことマクドって略すんだった。
行く当てもないので京都駅でカメラを振り回して暇を潰してみる。
左肩のトートバックには、買ったばかりのフィルムカメラが入っている。
通路の端に寄って、カメラに36枚撮りのフィルムを詰める。
街路からシームレスに改札を通り抜けてホームにつながる駅は性癖に刺さる。
ホームにカメラを向けると、高山行の特急が滑りこんできた。
自身の中にあるワクワク感に任せて足を動かす。
そういう写真の撮り方をしているときが一番楽しい。
長いエスカレーターに誘導されて視線が上を向く。
改札口のあるエントランスから左右に空間が広がっている。
規則正しく引かれた升目の上に、時折斜めの線や曲線が混じって溶け込む。
京都の碁盤の目が、地形や人々の営みによって完璧ではないように。
一見無機質に見える巨大建築の中に暖かみを与えている。
東側のエレベーターで4階まで上がると、烏丸小路広場という場所に出た。
名前の通り、南北方向に走る烏丸通に沿って駅ビルにぽっかりと穴が開いている。
人影はまばらで、そこを通り抜けるのは心地よい風だ。
さっきまでの暑さを忘れさせてくれる風だ。
その風と一緒に小路を通り抜けた先にはまた別の広場があった。
駅ビルにはいくつかの広場があり、それを通路で結ぶ構造になっている。
広場では人が佇み、通路を風が通る。
誤解を恐れずに言えば、「京都駅ビルには無駄がある」と思った。
この建築と向き合うまで、デザインとは、「機能美を追い求め、無駄をそぎ落としていくもの」と考えていた。
そのような考え方では絶対に産み出されない建築と出会ってしまった。
人が佇むだけの空間や、風が吹くだけの空間は生まれず、テナントが入り商業の空間になってしまう。
駅が憩いの場になるには、無駄な空間が必要なのだ。
機能に急かされていない空間の持つ魅力。
千年以上の歴史の中で、多くの旅人を受け入れ続けてきた京都という街の持つ魅力とも言えるかもしれない。
そんな街の玄関として、行き交う旅人と日々出会う駅ビルもまた旅人なのだ。
松尾芭蕉の様な事を考えていたらオタクから連絡が来た。
バスに乗って碁盤の目の街に潜り込んでゆく。
あついな~